さいごーどんの備忘録

香港⇒セブ⇒日本とセブを行ったり来たり 「毎日続ける」ことを目標に毎日の気づきと、時々現地の情報をお送りします。

理論と再現性:落語のプロと話して考えたこと

みなさんおはようございます。

さいごーです。

 

ここ最近の記事で時々登場している柳家東三楼(やなぎやとうざぶろう)さんが、一昨日の金曜日に留学を終えて卒業されました。
食事をご一緒させていただいたり、落語のイベントの準備をさせていただいたりしたため、長い時間お話させていただくことができました。
そしてお話を伺う中で、自分と同じようなことを考えていらっしゃるなあと感じる一方でプロの落語家としてのお考えから私に新たな気づきを与えてくださいました。
今日は休日ということで時間もあるので、少し時間をかけてしっかりとした記事で今の考えをまとめてみたいと思います。

 

東三楼さんから伺って最も印象に残っているのが、
「感覚ではなく理論として説明できるようにする」
という考え方でした。

英語の学習をする時、日本人が躓きやすい発音の筆頭が「LとR」の発音を区別することだと思います。
Lは舌を歯の裏側より少し上の壁にくっつけて発音し、Rは舌をどこにもくっつけずに奥の方に留めたまま発音するというのが一般的な説明でしょうか。
東三楼さんが留学して初日の授業で、フィリピン人の先生からこの舌の位置についてきっちりと説明を受けたそうです。
そしてその時、「落語と同じだ」と思われたそうです。

柳家一門が得意としている芸が「麺類をすする動作」だそうです。
扇子を箸に見立ててお蕎麦やうどんなどをすするのですが、この時、すする音の種類と速度、しぐさでどのような麺をすすっているかきちんと区別できるようにされています。熱いのか、冷たいのか、お蕎麦なのか、うどんなのか。実際に先日そのすすり方の違いを見せていただいたのですが、確かにどのような麺をすすっているのか区別できるんですよね。本当にすごいです。

この違いを舌の使い方で表現するのですが、東三楼さんは麺の種類に応じて舌の位置や形を決めて、他の人にも伝えられるような形で理解しているとのことです。
これが、ちょうど英語のLとRの発音の仕方の説明とよく似ており、落語と同じだと感じたそうです。

このように、他の人にも伝えられるような形で理解するというのが東三楼さんにとって大事な考え方だそうで、アートや演劇についても同じことを考えてらっしゃるとのことでした。感覚で良いというものではなく、なぜ良いのか説明できる。そういったものを創っていきたいと。

 

この考え方が私の考え方ともすごくフィットしました。
私はアートの方面はほとんどわからないのですが、日々の出来事について気になる事があると、「どうしてそうなるのか」ということをきちんと説明したくなります。
実は日々の生活でもなんとなくそうなっていることを受け入れていることがあり、いざ考えてみたときにどうしてそうなるのか、どうやったら同じことができるのか説明できないことは意外と多いです。

同じことができるかどうかという話では、「再現性」という言葉が使われます。
先ほどの発音や麺類をすする話はまさに再現性をどのように担保するかということです。このようにすれば、同じことができる、同じ結果が得られるというのを見つけたいのです。

常に同じ結果を得ようと思うと、理論が必要になります。
まさに、「このようにすれば、こうなる」ということなのですが、そのためには関係する要素を見つけて条件を揃えていかなければなりません。
発音なら舌の位置と形。アートであれば、「良いもの」を生み出すために必要な要素と、それをどう使っていくか。
言葉にするのは簡単ですが、実際の生活で要素を見つけて条件を揃えるというのは容易ではありません。

それは、違うタイミングで全く同じ条件を揃えるのはほとんど不可能に近いから。
発音を例にすれば、いつも口の中の条件が同じだということはまずあり得ません。
要素が少なく、条件の揃えやすい口の中でさえそうなら、もっと複雑で難しいことで再現性を得るのはほとんど無理なように思えます。
しかし、現実にはLとRの発音は毎回できるし、東三楼さんの麺のすすり方もきちんと毎回区別して聞こえます。もっと複雑で難しいことも、同じ結果が得られている場合がほとんどです。
それはなぜなのか。

まず、同じ結果を得るための条件に幅があるということが挙げられます。
毎回全く同じことができなくても、ある程度似ていれば結果としては変わらなくなる。これは一つ大きな原因です。
それに加えて、自分と相手による調節が入ります。
自分で少しいつもと違うと思ったらやり方を変えて試してみることができます。
また、受け手がいるような場合であれば、受け手もまた受け取り方を変えられるのです。

 

自分の中で理論が完成すれば、他の人に伝えることもできます。
そしてその人がまた自分なりのやり方に調整して、同じ結果を得ることができるようになるでしょう。
それこそが、自分の中で再現性を求める大きな理由です。
自分なら何回やっても同じことができる。それはこういうやり方を確立したから。
じゃあ他の人にも伝えよう。そうしたらみんなできるようになる。
こうやって自分の考え方ややり方が広がっていくのは、とても嬉しいことです。

そして、ある一つの小さなことからもっと抽象度を上げていけば、最終的には生き方についても理論化できるはずです。(抽象度についてはこちら:例え話をうまくする
自分の生き方が良いかどうかわからないけれど、自分はこういう考え方で、こうやってやったから成功した。(成功する前提として(笑))
やり方を伝えるし、そのやり方に至った考え方もしっかり説明する。だから、同じように成功してほしい。そうしてくれることが一番嬉しい。それは、自分の考え方、やり方、そして生き方を理解して支持してくれていることと同じだから。
大層なことを書いていますが、この考え方をしている人って多いんじゃないかと思います。これまで多くの先人たちの生き方や考え方、やり方を直接話を伺ったり本を読んだりして学べたからこそ、今こんな考え方に至っています。

その意味で、東三楼さんとお会いできてお話しできたのはとってもありがたく、嬉しいことでした。
自分のやり方が間違っていないということを示してくれたような気がしましたし、さらに深く考えることもできました。

 

東三楼さんは、これからさらに英語を学んで、英語で落語をしていくそうです。
そして、それをフィリピンでやってみたいとのこと。
きっと、どのような話を、どのような単語を使って、どのように話せば笑いにつながるのか、意識されていることと思います。
そのような落語自体の理論から始まり、英語で落語をするということ自体の理論ができて、さらに広がれば伝統芸能をどのように世界に広げていくかという話の理論にもなると思います。そこに再現性が見出せれば、もっと面白いことが起こりそうです。

 

今回の出会いに感謝し、これからも自分のやり方に自信をもって、考え抜いて、時には悩みながらも理論を創りながら楽しく生きていこうと思います。
それでは、また。