さいごーどんの備忘録

香港⇒セブ⇒日本とセブを行ったり来たり 「毎日続ける」ことを目標に毎日の気づきと、時々現地の情報をお送りします。

ら抜き言葉が嫌いです: 使う人が多いと正解になる?

私は間違った言葉遣いがどうにも気になってしまいます。これは自分でも分かっていて、気になる言葉や表現があるとどうしても考えてしまいます。そのことを指摘するかどうかは別として、自分の中で決着をつけたくなります。その最たる例が「ら抜き言葉」です。文法的な話は省略しますが、「見れる」とか、「寝れる」というのを見るとなんだかむずむずしてしまうのです。

この議論では、伝われば良いという意見が必ず出てきます。また、言葉は変わるものだからそれで良いという意見もよくあります。そして私もその意見に同意します。私はら抜き言葉が使われている場面に出くわしても、それを指摘しようとは思いません。指摘したところで意味がないからです。伝わっているならそれで良いと思います。ただ、自分では絶対に使いたくないと思っています。それは、まさに自分がその表現を気にしてしまう人だからです。

先ほど、意味が通じれば言葉が変わっていても良いという意見に同意すると書きました。しかしそこには一つ条件があります。それは、「変えた表現で何も損をしないかどうか」というものです。文法としては、まだら抜き言葉は誤りとされているはずです。そのためかどうかは分かりませんが、私のようにこの表現を気にしてしまい、最悪の場合その表現の使用者の評価が下がってしまうという場合があります。もしくは、正しく表現できている人の評価が上がるかもしれません。こう考えたとき、ほとんど変わらない表現なのに少し意識をするだけでプラスになることがあるのだと気づきます。

多くの人が使うことで、言葉や表現はどんどん身近になります。今は全く使われないような遥か昔の表現の方が正当とされているものもたくさんあります。そのような表現を引っ張ってきて、間違っていると言われてもそれは相手の気分を害するだけです。ただ、ら抜き言葉のような今まさに変化しているものは、まだその段階ではないように思うのです。こういう考えを持っていると頭が固いと言われるのかもしれませんが、今思っていることとして書いてみました。

それでは、また。