さいごーどんの備忘録

香港⇒セブ⇒日本とセブを行ったり来たり 「毎日続ける」ことを目標に毎日の気づきと、時々現地の情報をお送りします。

未知の表現と見つめ合う

久々に落ちついて読書ができています。四月に入ってから、何かとやること・やりたいことが重なって落ち着く時間が取れていませんでした。部屋でゆっくりするときはあったはずなのに本と向き合えなかったのは残念です。少し生活を考え直していきたいと思います。

本を読むと必ず知らない語句が出てきます。もし出てこなかったらその本のレベルはそこまで高くないので、さらさらっと読んでしまうようにしています。何かしらの知識をつけるための専門書は、知らない言葉とその概念を知るために読むわけなので、当然本の中にそれらの説明があります。そのための書物なのだから当たり前ですが。一方で小説や歴史書、啓発書の類だと分からない語句は自分でなんとかするしかありません。周 文脈から判断した上で、一応辞書で調べておく。それが今後必要ではないように思えても、新しい何かを学んでいるという実感があって楽しいものです。

しかし、もし1ページの間にたくさん分からない言葉や表現があると、これは読み進めるのが苦痛になります。だんだんと頭がぼーっとしてきて、読んでいるはずなのに理解はしていない。ざるに水を注ぐようにあらゆる情報が全ての抜け落ちていくという、そんな感じになります。こうなると一気にやる気が削がれます。特に外国語の文章を読むときはこうなることが多いです。なんだか身体がむずむずしてきて、投げ出したくなるのです。

しかし、実はそのむずむずが大事なのではないかとふと思いました。それは、自分が今持っていないもの、足りないものがなんなのかを明確に指摘してくれているその時間こそ、むずむずではないかと思うからです。これは特に外国語の本やもしくは外国語で書かれた本の日本語訳版を読んでいるときに多いのですが、むずむずを解消しようと語句を調べても、いまいち腑に落ちないことがあります。それはおそらく、その表現の持つ概念を理解するための基礎を自分が持ち合わせていないから。しかしその基盤こそが人として大きくなるかどうかの鍵なのではないかと思うのです。

昨日、英語の表現から入試を思い出したという話を書きました。あの頃はこのむずむずが嫌で、それを知識としてなんとか詰め込むことで対処しようと思っていました。しかし今考えると、むずむずはわくわくと表裏一体の関係なのではないかと思うのです。未知と向き合うとは自分の至らなさを痛感するときであり、かつ自分の可能性を感じられるときでもあると、そんな風に思います。

それでは、また。