さいごーどんの備忘録

香港⇒セブ⇒日本とセブを行ったり来たり 「毎日続ける」ことを目標に毎日の気づきと、時々現地の情報をお送りします。

なりたくない姿と学びの関係

社会に生きていく以上、人との関わりは避けられません。接する人数の多寡や深さの違いはあれど、必ずコミュニケーションが必要です。そういった人との関わりの中で、自分にとって付き合いやすいかどうかを考えてしまうのは避けられないことです。また、テレビなどを見ていて出てくる人物に対しても好き嫌いというのは感じるものだと思います。

ある人に対してどういう感情を抱いたとしても、そのこと自体に善悪という概念はありません。仮に大嫌いだと感じてしまったとしても、そのことで相手や周囲に迷惑がかからなければ何も問題はないからです。しかし、何かしらの感情の動きがあったのであれば、それは学びの機会と捉えることができるのではないかと思うのです。

ある人と接したりその人を見たりした時に、その人のようになりたいかどうかを考えることはよくあることです。もちろん完全なコピーというわけではなく、この人の仕事に対する姿勢は本当に見習いたいが、一方で食事に対する考え方は自分とは違う。という程度のものです。人としてどうあるかだけではなく、自分が創り上げる物や仕組みでも同じように感じることがあると思います。その時、なりたい姿となりたくない姿から得られる学びが、少し違うのではないかと考えました。

ある姿になりたいと思った時、考えることとしては「どうやったらその姿ななれるか」です。今の時点から取れる手段がいくつかあるとしても、最終的に目指すところが一つだということです。一方である姿にはなりたくないと思うと、これとは逆の発想になります。つまり、「この姿ではなく、どんな姿が理想なんだろうか」と考えるということです。最終的なゴールとしてこれは違うというのが出てきているので、その姿とは違う様々な姿を思い描けるということです。

必ず正解が一つあるわけではない世界では、もしかすると後者の方が学びが多くなるのかもしれません。自分で考えて何か行動を起こし、それを正解にしていく。それをしたいと思うと、いくつかの価値観の中で違うものを見つけていき、そのあと一つの信念に辿り着く方がイメージしやすいからです。まだまだ経験の少ない中での考えなので今後変わっていくと思いますが、こんなことを考えました。

それでは、また。