さいごーどんの備忘録

香港⇒セブ⇒日本とセブを行ったり来たり 「毎日続ける」ことを目標に毎日の気づきと、時々現地の情報をお送りします。

長めの潜水から浮上しました:とりあえず今回の学びをまとめます

昨晩、あるちょっとしたきっかけでダラダラしていた生活から抜け出せました。
客観的に見たときにダラダラしていたかどうかではなく、自分がどう感じていたかです。しっかりと期間を決めて旅行へ行き、その前後で論文を書いていたはずなので、案外ダラダラとは言わないのかもしれません。でも、自分の中で成長できている感じがなく、かつなんとかしようという意思もなく、その結果行動もできていなかったと思っています。封印していたはずのゲームが復活し、動画視聴の時間もかなり増えていたのに、自分で見て見ぬふりをしていました。自分で自分に対して甘くしてしまうことを許してしまったのは、かなり情けないです。

振り返るのはこのくらいにしておいて、とりあえず今回はどうしてそうなったのかをしっかりと分析してまとめておきたいと思います。
こんな感じで落ち込むのはこれまでにもあり、その度に調子を戻しては反省するというのを繰り返していて、仕方のないことだというのが結論です。そもそもずっと同じ調子で頑張り続けるというのはとても難しいので、それなら出来る限り落ち込む期間を短くするというのがこれまでのやり方でした。でもそれが今回は機能せず、2ヶ月以上というかなり長期間に渡っての停滞となってしまったので、しっかりと記録しておきたいと思います。

大きく関係するのは、自分で家事をしなくても良くなったということです。母親が食事や洗濯、洗い物といった毎日しなければならないことをしてくれるので、どうしても甘えてしまいがちでした。心のなかにそれは当たり前ではないし、自分でやらなければという気持ちもあるのですが、効率と自分の怠惰な心がそれを邪魔します。家事は、分担するほど大きなことではないのです。まとめて一人が(それも、できるだけ勝手が分かっている人が)やってしまったほうが短い時間で終わらせられ、質も高いのです。そこに自分があまり動きたくないという気持ちが加わったら、もう何もやりません。その結果自分の時間には余裕ができます。
もちろんそこで自分のすべきことや、他の家事をすれば良いのです。前者は最近までは卒業論文でした。これは特に問題ありません。しかし、後者がちょっと厄介なのです。

誰でもできるけれど、誰かがしなければいけないこと。というものがあります。
この「誰でもできるけれどやらないといけないこと」のやり方を失敗したことが、今回の停滞の二つ目の原因でした。
先に例として出した洗濯や食事の準備、洗い物なんかはまさにそうです。その作業の質の話をすると変わってくるので今回はその点を度外視します。で、それらは母親に任せていました。じゃあ私は何をするかというと、以前のブログで触れたような灯油の買い出しとファンヒーターへの給油、その他食材の買い出し、ちょっとしたDIYや家具の修理などです。
こういった仕事は、他の家事を完全におまかせしている以上自分も何かやらなきゃいけないという気持ちで取り掛かることができます。正直なところちょっと面倒でも、滅多にいない実家なんだから、何かしようと考えるのです。こういった気持ちから入ってすると、非常に健全です。自分は他にやりたいこと、やるべきことがあるから出来る限り効率的にパパっと終わらせようとします。

問題は、こういったことを自分のために行うようになってしまうことです。
どういうことかというと、次第に「他にやることがあるんだけれど、頼まれたから仕方ない」とか、「頼まれたことをやって家族のためになったから、良かった。達成感あるなあ。疲れたからちょっと休もう」という思考に陥ってしまうということです。
この思考に嵌まると、いかに自分が面倒なことをやらなくても良い言い訳を見つけられるか、ということに視点が移ってしまいます。ここでいう面倒なこととは、やってもやらなくても今はそこまで影響がないけれど、必ず役に立つ(と自分は思っている)ことです。それらをやらなくなるのだから、当然成長なんか見込めません。でも毎日なんとなく人の役に立てているような気がして、それでも良いかと思ってしまうわけです。

これは何も、誰でもできることをしなくて良いというわけではありません。それが仕事であればきっとそうだと思います。自分にしかできないことをしたほうが良いのは当たり前です。でも、家族の間であれば、それがコミュニケーションになる可能性もあるし、何かを考えるきっかけにもなるかもしれない。個人的に、家族や親しい間柄の人たちとのお付き合いでは効率を考えないことも大切だと思っています。
結局、そこに目的があるのかという質問に行き着きそうです。誰でもできることをしていても、何かを得られるならかまわない。でもその何かが自分への言い訳になってしまってはいけないと、強く感じます。

私は「一緒にいる5人の人間が自分を形作る」という言葉は正しいと思っています。このブログでも書いたかもしれませんが、昔先輩に言われた言葉です。
この言葉を借りるなら、今回は海外でもなく、都会でもなく、実家という大変居心地の良い場所で、一緒にいることに慣れきった人たちと、特に難しくもないことばかりしてきたから停滞してしまったのかもしれません。そして、そういう環境だから停滞に気づこうとせず、長引いたのかもしれません。
でも、これではあまりにも主体性がありません。良い環境に飛び込みさえすれば自分も変われるというという意味にも取れてしまいます。そしてその意味で、完全に他人に責任を押し付けています。

停滞していたと感じていますが、だからといって無駄だった期間ではありません。あらゆることに新たな発見があり、そして非常に楽しい日々でした。ただ、そういう時間ももう少し違った態度で、姿勢で受け止められていたらもっと変わったものだったかもしれないと思っています。

今のこの気持も、またしぼんでいって再び潜水してしまうのかもしれません。
ただ、こうやって記事にできたことは良かったです。
また見直して、ちょっと恥ずかしさを感じつつも、復活できるきっかけにできると思います。

それでは、また。