さいごーどんの備忘録

香港⇒セブ⇒日本とセブを行ったり来たり 「毎日続ける」ことを目標に毎日の気づきと、時々現地の情報をお送りします。

読む、観る、遊ぶの刺激と欲求

今日も元気に卒論制作です。そのために、たくさんの本を読んでいます。
こういう時、本は便利です。
自分で読むスピードを変えることができ、しっかりと読むところを決められます。
読み飛ばすのはあまり好きではないので、このまま余裕を持って読み進めていきたいところです。時間が無くなって焦ると必要なところだけを読まざるを得なくなりますが、それは避けたいと思います。

以前の記事でも触れましたが、私の所属しているゼミ(研究室)では、毎週のゼミの時間に卒論の進捗を報告しゼミ生同士で意見交換を行い、さらに先生からフィードバックをもらいます。
各自がそれぞれ違う分野(業界)へ進むので、新たな発見があってためになります。
そんな中、本について発表するゼミ生がいて、発表に対するフィードバックの中で「読む、観る、遊ぶ」の違いについて調べてみるのはどうかというコメントがありました。
それぞれ動作の対象をいろいろと想定できますが、ここでは分かりやすく、読むというのは読書、観るというのは動画を視聴すること、そして遊ぶというのはゲームをするということだと考えたいと思います。全て娯楽として広く受け入れられている行為です。
簡単に考えると、読むは能動的であり、観るは受動的、そして遊ぶは能動的でありつつ受動的でもあると言えます。
読むという行為は読み始めるのも、読み進めるのも、中断するのも、読み終えるのも自分の意思にゆだねられます。しかし、観るという行為だと、一度観始めると後はずっと流れていきます。もちろん止めることはできるのですが、何もしなくてもずっと情報が与えられて流れができるので、読むことに比べて中断しにくいです。そしてゲームをして遊ぶという行為は、ある程度自分で進めないといけないけれども、進めれば情報が与えられ、また次の行動を促されます。進めるという行為は読むに近いのですが、映像によって情報が与えられるため、受動的になる部分もあります。
それが優れているとかではないのですが、能動的な行為である読むことは、エネルギーをより使うと思われます。

一方で、それぞれの行為から与えられる刺激と満たされる欲求を考えてみると、これまた面白いのです。
読むという行為においては、文字情報から映像や音声を想像します。したがって、自分で刺激を調整でき、満たしたい欲求にうまく当てはめることができます。
言うなれば穏やかな刺激であり、心地よい満足感を得られます。
一方で、映像から与えられる刺激はほとんど全ての情報に対して受け身になっているため、想像の余地がほとんどありません。しかし、その分ダイナミックな刺激です。
観るという行為と遊ぶという行為、つまり映像とゲームにおいては、受動的な部分があるため刺激を次から次へと受け取ることになります。
これは一瞬の満足度が非常に高いのですが、渇きを感じるのも早い。一度始めるとやめられなくなるタイプの満足感です。

何も受動的な激しい刺激を否定し嫌うわけではありません。
どのような刺激が良いかはケースバイケースであり、一概には言えないものです。
ただ、本を読んで得られる満足感はコントロールがしやすく、冷静に楽しめるのではないかと思うのです。
最近本をたくさん読むようになり、それでも動画が見たいと思ってしまう自分を分析すると、こんなことを思いました。

それでは、また。