さいごーどんの備忘録

香港⇒セブ⇒日本 「毎日続ける」ことを目標に毎日の気づきと、時々現地の情報をお送りします。

反例探しで嘘ではなくなる

昨日、気力が無くなる疲れの話をしました。どうやら最近はこの気力疲れ、すなわち精神的に疲れやすい社会となっているとよく聞きます。私はまだまだ生きている年数が少なく実際のところがどうなのか経験を基に話せるわけではないのですが、インターネットの普及で触れられる情報量が膨大になり、それらに対処しようとして疲れてしまうというのはあるように思います。現実にストレス社会という言葉が普及しているということも根拠の一つになりそうです。

さて、確かに情報量が増えているのは事実なのですが、本来情報は自分で入ってくる量を調節できるはずです。ネットには繋がない、テレビは点けない、電話は持たないなど、全て行うとさすがに極端だとは思うのですが、ある程度の制限ができます。だとしたら、その制限の仕方が分からないからうまく情報と付き合えていないのでは?と思うのです。

どういう情報を切り捨てていくべきなのか。これは個人的に気になることなのでよく考えるテーマです。そして気づいたのは、全く結果に影響しない、もしくは最終的な真偽が分からない情報が多くなり過ぎているということでした。

一つ目の結果に影響しないというのはイメージしやすいことだと思います。自分から遠いところの話ということです。もちろんそれを知っていると話題についていけないのであれば必要になるのですが、それはそこまで多くないはずです。この手の情報は、接し方が分かりやすいものだと思います。もう一方の、真偽が分からない情報。こちらが厄介だと個人的には考えています。

ある情報があったとして、そのことが本当なのか分からないというのはよくあります。そもそも情報はそういった性質を帯びやすいからです。そしてそれを自分なりに検証していくのが大切なのですが、体験するとなると時間やお金、労力が必要です。だからこそ他の人が経験したことで代用したくなるのですが、ここに難しい問題があります。それは、「情報を嘘ではない形にするのは簡単だ」ということです。

例えば、あるダイエット健康食品があったとして、それが本当に自分にとって有用かどうか知りたいとします。本来であれば試すしかないのです。しかし、お金や時間の都合から誰かの書いた記事を読んだとします。ほとんどの人はあまり効果がないと書いていて、ダメなのかと思ったら、何人かは本当に効いたと書いています。その効いたと言っている人の記事が本当かどうか分からないと、効果の有無は誰にも分かりません。こういった判例となる情報があまりにも多くなりつつあります。

これはやはり、誰でも簡単に情報を発信できるようになったことに起因しているでしょう。情報を操作することでメリットを得られる人ですら情報を発信していけるのです。このような状況になっている以上、あることを知った時、その真偽のほどは最終的に分かるのか、そして分かる必要があるのかということを意識すべきだと、そんな風に思います。

それでは、また。