さいごーどんの備忘録

香港⇒セブ⇒日本とセブを行ったり来たり 「毎日続ける」ことを目標に毎日の気づきと、時々現地の情報をお送りします。

書き続けて分かったブログとの向き合い方

なんだかんだこのブログを始めてからすでに一年が経過しています。ただ、毎日書き続けるようになったのは昨年の8月後半くらいだったように記憶しているので、まだまだ先です。そのときに書き続けようと一念発起した理由が「何かを発信し続けたら気づくことがあるかもしれない」というものでした。で、それなりに続けることができた今、少しはその効果を振り返りたいと思います。何もしないまま放置していても、終わりがないのでけじめがつきません。おそらくまだ見えていないところもありますが、今回は改めて考えたブログをどう捉えて続けていくのかということについて、まとめてみます。

結論から言うと、私のブログは日々の些細な気づきをまとめていくのが目的です。できる限り、あまり意識していなかったことに気付いたり、新しく知ったりしたことにスポットを当てたいと思っています。それはなぜかと言うと、将来何かを伝えるときの私という人間の記録と証拠として使いたいからです。

学生だった頃、年に2回くらい講演会というものがありました。通っている学校の卒業生の方やゆかりのある方をお呼びして、学生に向けて何か伝えてもらうという会です。この講演のほとんどが、残念ながら本当に分かりにくかったのです。どうして学生の立場で考えられないのか、いつも不思議に思っていました。ある専門的な分野を研究する機関の方が、その専門分野の話だけをひたすらされたことがあります。多分その人のお話を聞けるのはすごいことで、貴重な経験だったのだと思います。しかし、その分野に興味がないのだから、集中して聞くのはなかなか難しかったです。今思えば浅はかだった部分もあると思いますが、その時々の自分はそれなりに頑張って生きているつもりであり、今の自分に関係のない話をされても興味がわかないのは仕方ないだろうと、そんな風に捉えていました。そういった話をされる方がいる反面、本当に魅力的なお話をされる方もいらっしゃいます。その内気づいたのが、そういった方々は皆さん聞く側の視点に合わせてお話しをしてくれているということでした。

じゃあそんな話を自分がしようと思ったら、どうすれば良いだろうか。どうしても、記憶は都合よく改竄できてしまいます。意図的ではなくとも、本当に事実がどうだったか忘れてしまうのです。そう考えたとき、その時々の記録をつけるというのが頭に思い浮かびました。日記をつける感じですね。その結果、Evernoteに毎日つけている日記の習慣が始まりました。しかし、残念なことにその記録を参考にしても、話すときにはまた編集ができてしまうわけです。自分をよく見せたいと思えば、話すときに都合の良い部分だけを日記から抜き出して話すようにすれば良い。事実関係さえしっかりとしていれば、誰も指摘できません。日記をつけている自分自身も、その時々で変化します。だとすると、事実そのものを記録するのは難しいと思います。

そう考えたとき、毎日の変化すらも全て組み込む形で発信できるのは、もしかしてブログなのではないかと気づきました。やる気がないときや成長できず停滞している時期でも、ブログを書くことだけは続ける。そうすれば、ただなんとかネタを見つけて書こうとしているときはやる気がないときで、逆にしっかりと書けているときには何かが変わりつつあるときだということがなんとなく分かりそうです。自分が人に何かを伝えられるような人間になったとして、停滞していた時期があったことやダラダラしているときもあるというのを伝えようと思うと、ブログはその証拠になり得る気がします。

そういうわけなので、常に有益な情報を発信するということもないですし、写真や画像を豊富にしていくこともあまりしないと思われます。(努力はしたいですが)

続けてみて分かったのは、続けることで自分の変化を捉えるためのある種のデータを蓄積でき、それは今は意味がなくとも将来的に意味を持つかもしれないということです。ということで、読む人を不快にはしないよう気をつけつつ、今後も続けていきたいと思います。

それでは、また。